たくさんの詩や翻訳を手がけている谷川俊太郎さん。
2024年11月13日の夜に老衰のため亡くなったそうです。
谷川さんが関係した作品は教科書にもたくさん掲載されています。
谷川さんの「スイミー」は多くの教科書にも掲載され、
子どもたちも大好きな作品です。
個人的には「スヌーピー」が子どものころ好きだったので
その、翻訳を谷川さんがされていたのでとても、残念です。
息子さんの賢作さんは、中国公演からの帰途の途中で
最期には間に合わなかったようですが、
娘さんの志野さんが駆けつけ最期を一緒に過ごせたようです。
心からご冥福をお祈りします。
詩人、翻訳家だけでなく、絵本作家、脚本家、童話作家、作詞家と
多才な谷川俊太郎さんは、どんな家族のもとで育ったのでしょう。
谷川さんの生い立ちや
谷川さんを取り巻く才能あふれる家族、
父、母、妻や子どもたち、孫や
谷川さんの現在についても紹介していきます。
谷川俊太郎wikiプロフィール
本名 谷川俊太郎
生年月日 1931年12月15日
没年月日 2024年11月13日(享年92歳)
出身地 東京府豊多摩群杉並町(現、東京都杉並区)
最終学歴 東京都立豊多摩高校
谷川俊太郎の父と母
父は、哲学者で法政大学総長の
谷川徹三さん。
有名な学者でした。
京都帝国大学哲学科卒。日本芸術院会員。
宮沢賢治や仏教にも造詣が深く、
哲学以外にも芸術や宗教など扱う分野は多岐にわたっていました。
谷川さんの多彩さもお父さん譲りなのかもしれませんね。
叙従三位、叙勲一等授瑞宝章受章し
文化功労者にも選ばれています。
お母さんは、衆議院議員だった長田桃蔵の娘、多喜子さん。
従妹には、元愛知県常滑市長の庭瀬健太郎さんがいます。
当時としては、珍しい恋愛結婚でした。
谷川俊太郎さんの両親の経歴も目を見張るものがありますね。
谷川俊太郎の経歴
谷川俊太郎さんは、東京都杉並区で生まれ育ちました。
1945年5月の山の手空襲を体験し
京都府に疎開していたそうですが
1946年には、杉並の自宅に戻り、
現在までその地で過ごされています。
高校の友達が同人誌を出すので、
谷川さんにも詩を書いてほしいと依頼され、書いたことが
詩を書くきっかけになったと言えばなったのか
と回顧されています。
その後、学校に行かなくなりました。
音楽を聴いたり本を読んだり詩を書いたりする
時間やルールに束縛されない生活を送り、
大学などには行きませんでした。
これほど多彩な谷川さんには、
画一的な学校教育は窮屈だったのかもしれないですね。
谷川俊太郎さんが当時書き溜めた詩をお父さんに見せたことで、
お父さんの知り合いだった三好達治の紹介で
1950年、19歳の時「文学界」に「ネロ他五編」が掲載されました。
三好達治がお父さんの知り合いと言うことも
ビックリしてしまいます。
普通のお父さんではないことが
ここでも分かりますよね。
1952年には処女詩集「二十億光年の孤独」を刊行しました。
以来、多くの詩を創作し、著書が多数あります。
また、詩を作ることとともに、歌の作詞や脚本、
エッセイの執筆や評論活動などを行うようになりました。
必死にお金を稼いでいたので
脚本や演出、翻訳など
色々な仕事を受けていたと話されていますが
そのすべての仕事に才能が発揮することができるというのが
本当に素晴らしいです。
一つのことでも才覚をあらわすのは大変だと思うのですが
谷川さんは才能を独り占めしているようで
私はうらやましい以外の言葉が見つかれいません。
多くの性能があるので
それだけ、感性も豊かなのかなと思います。
1962年に「月火水木金土日のうた」で
第3回日本レコード大賞作詞賞を受賞しました。
この歌は、
わたしが子どもの時に歌った覚えがあります。
また、教師になった頃に
1年生の音楽の時間に
教科書にはないのですが、
「月火水木金土日のうた」を選んで一緒に歌っていました。
「お月様は気が変だ」
この部分は、今では歌えないですが
「気が変」
をちょっと変えて歌わせていました。
谷川俊太郎さんの作詞だったとは!
今回調べて初めて知りました。
ただ、歌詞を思い起こせば
言葉遊びになっています。
確かに、言葉遊びが得意な
谷川俊太郎さんの作品だということに
今更ながら私は納得してしまいました。
また、こんな子ども向け?と思える歌も
レコード大賞を取るのが意外でした。
その後
1964年からは、映画作成
1965年からは、絵本の世界に。
1967年には翻訳も始め
「スイミー」を始めとしたレオ・レオニ作品や
スヌーピーが登場する漫画「ピーナッツ」や
「マザー・グースのうた」
「にじいろのさかな」など多数の翻訳をされています。
また、
北は北海道から南は鹿児島県まで
たくさんの幼稚園・小学校・中学校・高校・大学の校歌を作詞ました。
最近では、2018年にも提供されています!
また、息子の谷川賢作さんの作曲とのコラボもいくつかありました。
企業などにも歌を提供していました。
チョコレートで有名な北海道の六花亭の歌も作詞されていたのには
驚きました。
私も六花亭のチョコは好きなので、
どんな歌なのか聞いてみたくなりました。
それにしてもどれだけ多才な方なのでしょう。
また、多くの歌手にも影響を与えていました。
中島みゆきさんは、大学の卒論で谷川さんについて執筆したそうです。
谷川俊太郎さんは、手がけているどの分野でも
たくさんの作品を残されていて
そのバイタリティや言葉の豊かさに感激してしまいます。
そして、これも!これも!知っているとワクワクしてしまいます。
国語の教科書に掲載される詩にも谷川さんの作品はたくさんありますね。
また、翻訳絵本も気付けば谷川さん
というものも意外に多いことに気付かされます。
谷川俊太郎の結婚は3回
谷川俊太郎さんは、恋多き人といわれています。
きっと、その時その時人に対して真剣に向き合っていたのでしょう。
ただ、妻の立場だと辛いですね。
奥さんがいながら恋愛をして別れ、
そして、結婚…を3回。
どんな方と結婚歴があるのか、紹介します。
谷川俊太郎の最初の妻は岸田衿子さん。
1954年10月4日に結婚しましたが、
1955年に谷川さんが脚本を書いた
一人芝居「大きな栗の木」を劇団文学座が上演したとき、
出演女優の大久保知子さんと知り合い、
親しい間柄になっていったようです。
1956年10月に離婚しました。
岸田衿子さんは、
劇作家だった岸田國士の長女として、
杉並区で生まれました。
谷川さんも杉並で、
近所だったのでしょうか。
幼馴染だったようです。
妹は女優の岸田今日子さんです。
東京芸術大学油絵科を卒業しましたが
肺病によって、画家の道を断念し
絵本製作や詩を作るようになりました。
「ジオジオのかんむり」は
道徳や国語の教科書で取り上げられたことがあります。
アルプスの少女ハイジやフランダースの犬、赤毛のアンなどの
オープニング、エンディングのテーマを作詞されています。
これらは、フジテレビ「世界名作劇場」で放送されていた
名作アニメでした。
私も子どものころ毎週日曜日だったと思いますが…
楽しみにしていたのを思い出しました。
岸田衿子さんの
「ジオジオのかんむり」の詳細はこちらで紹介しています。
谷川俊太郎の二番目の妻は大久保知子さん。
谷川俊太郎さんは1957年に2度目の結婚をしました。
そのお相手である大久保知子さんは面倒見が良かったようで
谷川俊太郎さんを支えながら
男の子と女の子一人ずつを育て上げます。
俊太郎さんのお母さんの介護の問題で夫婦関係が悪化してしまい
3番目の奥さんになる佐野洋子さんと
谷川俊太郎さんが恋愛関係になり
1989年に離婚しました。
32年間と最も長い結婚期間を過ごされましたが
谷川俊太郎さんは、自分の気持ちに正直すぎる
面があるのかもしれないですね…
お母様問題がなければ、
もしかしたら、違っていたのかもしれないなと思うと
私はなんだか切ない気分になってしまいます。
谷川俊太郎の三番目の妻は佐野洋子さん
佐野洋子さんは
「100万回生きたねこ」の著者として有名な作家です。
佐野さんも一度離婚を経験し、
谷川さんと再婚しました。
最初の夫との間にお子さんがいます。
1990年に結婚しましたが、
6年後に離婚してしまいました。
谷川俊太郎さんは恋愛も自由奔放な方だったのだなと
思います。
自分の気持ちを偽れない正直な方だったのかも
しれませんね。
佐野さんの代表作「100万回生きたねこ」の詳細は
こちらで紹介しています。
谷川俊太郎の子どもや孫は?
実際のお子さんは、
2回目の結婚の大久保知子さんとの間にいます。
男の子と女の子が一人です。
また、3回目の佐野洋子さんには男の子が一人いらっしゃいます。
お子様たちとは良い関係にあるようなので
谷川俊太郎という人は
人として何か人を引き付ける魅力的な人なのでしょうね。
谷川俊太郎さんの息子は谷川賢作さん
谷川賢作さんは作曲家でピアニストです。
NHKの歴史番組「その時歴史が動いた」の音楽を担当していました。
谷川さんの現代詩をうたうDivaというグループを結成し
詩の朗読会とかコンサートを一緒にやっているようです。
日本アカデミー賞優秀音楽賞を3度
第40回アジア太平洋映画祭最優秀音楽賞などを受賞しています。
息子さんが、還暦になった時
自分が年を取ったことよりも
息子さんが還暦だということの方がショックだったとか…
確かに自分の子どもがそれくらいの年になるということは、
認めたくないですが
自分はもっと年を取ってしまったということを
自覚させられてしまい
その年月の早さに驚かされてしまうのかもしれませんね。
私も、すでに子どもたちが
私が結婚したり、わが子を産んだ年になっていることが
信じられません。
それが還暦を迎えたなんて言われたら…
谷川俊太郎さんの話を聞いて、
私には、どんな感情が生まれてくるのだろうと思いました。
谷川俊太郎義理の息子さんはイラストレーターで画家の広瀬弦さん
3回目の結婚をした佐野洋子さんのお子さんは
広瀬弦さんで、イラストレーターです。
佐野洋子さんが再婚した当初、広瀬玄さんは21歳でした。
もう、成人されていたので再婚といっても
反対などはなかったかもしれません。
谷川俊太郎さんと佐野洋子さんが共作で本を出版されていたことから
中学時代から広瀬弦さんは谷川俊太郎さんのことを知っていたそうです。
離婚後も谷川俊太郎さんとの交流は続いていて
「まり」という本を共作されました。
他にも谷川俊太郎さんの本の絵を担当しているものが多くあります。
また、「くまの子ウーフ」シリーズの絵など
たくさんの絵本の絵を担当されています。
親が離婚した後も
義理の父親との関係を続けるってどんな感じなのかなと
ふと思ってしまいました。
関係と言っても仕事でよいパートナーなのかもしれないですね。
谷川俊太郎さんの孫娘は谷川夢佳さん
谷川賢作さんの娘で
スタイリストの谷川夢佳さん。
アクセサリーブランド「Yumeko」の製作・販売もしています。
結婚してお子さんもいらっしゃるので
谷川俊太郎さんにはひ孫もいらっしゃるのですね。
谷川俊太郎の晩年(2023)
谷川俊太郎さんは
2023年、杉並区で暮らしながら活躍されています。
5年前の区報の記事では、
善福寺川緑地周辺を
お気に入りの散歩コースの一つとして紹介しています。
70歳を過ぎたころから、近所を散歩するようになったそうです。
当時は、毎日歩いていました。
善福寺川沿いは自然が残っていてお気に入りの散歩コースでした。
今も、健康のために谷川さんは歩かれているのでしょうか。
最近は、脚が弱くて歩くのが苦痛になったと言われていますが…
いつまでも元気に散歩をされているといいなと思います。
今現在も、
スマホに入っている広辞苑を使って、
マックブックで執筆をし、
詩を推敲しています。
一番心を癒されるのは、音楽だそうで
インターネットで見つけた好みの音楽サイトで
クラシックを聴くそうです。
またネットショッピングもしています。
90歳代なのに
こんなにデジタル機器に囲まれ
じょうずに活用されていることを思うと
なんか、私より時代に適応されているなと羨ましく思います。
谷川俊太郎さんは、
新しいものをどんどん取り入れて
挑戦されている柔軟な方だなぁと思います。
私でも、デジタル関連の新しいものをいじろうとすると
ややこしくて時間がかかり
面倒だなと思うことが多いので
谷川俊太郎さんの
いつまでも
新しいことに挑戦する気持ちを
見習わないといけないなと思います。
興味をもって取り組む気持ちを
私も持ち続けたいと思います。
2024年に亡くなるまで、本当にお元気で新しいことも取り入れて
積極的に作家活動をされていたのだと思いました。
そんな生き方にあこがれます。
谷川俊太郎さんの小学校教科書に掲載されている作品
詩が多いので、詳細は避けますが…
令和2年度版の国語の教科書から調べました。
<翻訳>
レオ=レオニを翻訳した絵本が掲載されています。
スイミー
(教育出版1年生、東京書籍1年生、光村図書2年生、学校図書2年生)
教科書には掲載されていませんが、道徳で使えます!
谷川俊太郎さん訳のにじいろのさかなの詳細はこちらで紹介しています。
アレクサンダとぜんまいねずみ(教育出版2年生)
<詩>
いるか(学校図書1年)
きっときってかってきて(光村1年生)
かえるのぴょん(教育出版2年生)
みんみん(光村2年生)
ことこ(光村2年生)
どきん(学校図書3年生、光村3年生)
たいこ(光村3年生)
およぐ(光村4年生)
つき(光村4年生)
かんがえるのって おもしろい(光村5年生)
生きる(東京書籍6年、光村図書6年)
春に(東京書籍6年)
本当にたくさんの作品が紹介されていますね。
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