「いやいやえん」「ぐりとぐら」の作家中川李枝子さん。
2024年10月17日老衰で亡くなったそうです。
大好きな作家さんだったので残念です。
心からご冥福をお祈りします。
「いやいやえん」「そらいろのたね」「ももいろのきりん」「ぐりとぐら」
などは保育園で働きながら執筆活動を行っていました。
現在にも?現在にこそ!大切な子どもとのかかわり方などを
インタビューなどで示唆しています。
端々に名言があり心が動かされます。
素敵な保育士さんでもあった中川李枝子さんの夫や息子さん両親や兄弟
現在の自宅やプロフィールなどを紹介していきます。
中川李枝子さんwikiプロフィール
本名 中川李枝子(旧姓大村)
生年月日 1935年9月29日
没年月日 2024年10月17日(享年89歳)
出身地 北海道札幌市
最終学歴 東京都立高等保母学院(現・都立高等保育学院)
その前に実践女子学園高等学校を卒業している。
4才から小学校3年まで東京で過ごし、
その後、疎開により一時札幌へ。
戦後まもなく父親の仕事の関係で福島市へ。
高校2年の時に東京に戻り、実践女子学園高等学校卒業後
東京都立高等保母学院(現・都立高等保育学院)を卒業し
世田谷区のみどり保育園に勤務。
今回調べて見て、
私は、
戦争の影響もあって、
生まれてから保育園で働き始めるまでは
あちこち転居が続いていたことを知りました。
様々な場所で、様々な経験をしながら
多感な頃を過ごされたことも
作品や中川さんの生き方に
多くの影響を与えているかもしれないと感じました。
中川李枝子さんの受賞歴
1962年「いやいやえん」厚生大臣賞・サンケイ児童出版文化省
・野間児童文芸推奨作品賞
NHK児童文学奨励賞
1980年「子犬のロクがやってきた」毎日出版文化賞
2013年 菊池寛賞 (妹である山脇百合子さんとともに) など
中川李枝子さんの夫は、中川宗弥さん
24歳の時画家の中川宗弥と結婚。
中川宗弥さんは、1932年朝鮮で生まれ
敗戦で引き上げ後東京芸術大学でまなび、美術学部絵画科油絵部を卒業しました。
中川李枝子さんとの作品も多数あります。
戦後の民主主義の影響を受け、
女性でも自立て生きていきたいと思っていた中川李枝子さんは
縁談話には、あまり積極的ではなかったようです。
結婚はしたくなかったのでしょうか?
それとも、もう少しゆっくり結婚をしたかったのでしょうか?
結婚話が出た時に、
そういう人はなかなか連れてこれないだろうと
画家となら考えると言ったところ
紹介されたのが中川宗弥さんだったとか。
結果としてご夫婦で絵本を世に送ってもらえたので、
私たち読者にとっては、ありがたい出会いだったのかな…
と勝手に思っています。
ご主人は今も、ご健在です。
奥さんの分まで長生きしてほしいですね。
中川李枝子の子どもは男の子
結婚した翌年に
長男の画太さんが生まれています。
その後8か月の産休・育休(当時、制度があったのかは定かではありません)の後
保育園に復帰されています。
私は、中川さんの仕事に対する熱意と誠実さに感銘を受けました。
この当時、
子育てしながら
女の人が子育てしながら働くなんて
ごく限られた職業の人だったと思うので、
今ほど
色々な法律などが
整理されていなかったでしょうから
大変だったことと思います。
私は、息子さんがどんな風に育ったのか
中川さんがどのようなことに気を付けながら育てたのか気になりました。
中川李枝子のお父さん
北海道大学で遺伝学を研究していました。
家には外国の本がたくさんあり
タイプライターもあったそうです。
タイプライターが、
家庭にあるなんで当時は珍しかったことでしょう。
情操教育重視で成績はとやかく言わない。
遊び相手や勉強、
洋服を着せるお風呂に入れるという
子供の面倒を見るのがお父さんでした。
私は、子煩悩なお父さんだなと思いましたあ。
戦後すぐのころの日本の家庭を考えると
お父さんたちは仕事に忙殺されていたイメージしかないのですが
そこは、研究者??
一般的な家庭とは違う働き方だったのかもしれません。
人柄かもしれませんが…
情操教育を重視していたところとみても
当時の考えより
より、今どきだなぁと思います。
私はそんなお父さんに、
確固たる信念を感じ取ることができました。
何でもやりたがり屋で、たくあんなども
ご自身で漬けていたそうです。
当時は、男が台所に入るなんて…
という時代だったと思うので
枠にとらわれないというか
今となっては最先端な考えの持ち主だったのではないでしょうか。
戦後は仕事の関係で福島に拠点を置いて生活しました。
山羊、鶏、うさぎ、猫などがいて
それぞれ兄弟で世話をしていました。
中川さんは鶏の係でした。
鶏も卵を産まなくなると
食用として家で処理をして、
ひねるところ以外を
お父さんは子どもたちに見せ、
夜は鳥鍋にして食べました。
私は、解剖など苦手なので
内臓などを見るのと
朝まで生きていた鶏を食べるのはちょっと…
と思ってしまうのですが、
わたしの母もそんな経験を話してくれていたことを思うと
戦後の人たちの生活は、
命を身近に感じながら生活していたのでしょうね。
中川李枝子のお母さん
小学校の先生だったそうです。
子どもたち一人一人と付き合っていて
お兄ちゃんだから、お姉ちゃんだからと
接するのではなく、
私(母親)とあなた(子ども)の関係
一人の人間として子どもを尊重していたのでしょう。
素晴らしいですね。
さすが、教育者だった方だと私は思いました。
そういうところが、中川さんの保育士としての
姿勢にもつながっていたのかなと思います。
両親そろって本好きで
疎開する時には
本がないだろうと心配して
名作全集のようなものをりんご箱に詰めてもらったそうです。
中川李枝子さんも山脇百合子さんも
そんなご両親に育てられ、
本に対しての感性をはぐくまれたのでしょう。
子どもの時にどんな環境で接するか
その大切さを私は再確認することができました。
中川李枝子の兄弟
中川さんは5人兄弟です。
上に3歳離れたお姉さんとお兄さん、弟、6歳離れた妹がいました。
妹はぐりとぐらの絵を担当していた山脇百合子さんです。
二人で組んで世に出した作品も多数あります。
私は、こんなにたくさんの兄弟がいたにもかかわらず、
一人一人大切にされてきたご両親が本当に素晴らしいと感じます。
中川さんも保育士さんとして
一人一人を大切にしながら伸び伸び保育したいという気持ちで
保育してきたのは、ご両親の影響なのかなと思いました。
保育園で保育士として働いた中川李枝子さん
先述にもありましたが、自立したいと考えていた中川さん。
福島の家のそばにあった養護園での子どもたちの様子を常に感じていて
子どもたちのことが気になっていたのでしょう、
お父さんの読んでいた雑誌の中に
都立高等保母学院の学校紹介がたまたま掲載されていて
生徒が楽しそうに勉強している姿をみて
保母学院に興味をもったそうです。
福島にいたものの、
たまたま、お父さんの仕事で17歳の時に、東京に戻ってきました。
19歳で保母学院に入学します。
運命ともいえるタイミングですよね!
そういう偶然を手繰り寄せる力が中川さんにはあったのでしょうか。
度々、こういう素敵なめぐりあわせが中川さんに訪れます。
卒業の時
世田谷の駒沢公園がまだ整備されず
野原だったところの脇に無認可保育園のみどり保育園があり
そこで主任保母を募集していました。
日本一の保母さんになりたくて
もちろん理想の保育園を作りたくて…
応募すれば、新卒であるにもかかわらず、
いきなり主任になれる。
自分の理想の保育ができるということで
みどり保育園に応募したそうです。
私だったら、新卒でいきなり主任なんて…と
ちゅうちょするところですが、
それだけ、中川さんには強い思いがあったのだと思います。
みどり保育園は、園長先生と中川さん二人だけ。
「一人残らず来る保育園」を目指すということを言われたそうです。
一人残らず来るというのが
どれほど大変なのかは
教師をしていた私は身をもって知っています。
まして、小さい子達です。
わざわざ保育園に来なくとも
隣には野原。
そっちで遊んだほうがいいに決まっています。
そんな子たちを相手に
子どもたちを引き付けるために始めたのが
紙芝居づくりでした。
紙芝居づくりから、絵本創作へとつながっていったそうです。
中川さんの初期の頃の絵本は
目のまえにお客さん(子どもたち)がいて
その反応を評価にしながら
絵本を製作されていたでしょう。
実は、私も子どもの頃
良く駒沢公園に遊びに行っていたので
中川さんを調べていくと
懐かしい地名や場所を思いだし
目のまえにその光景を思い浮かべることができて
楽しかったです。
もしかしたら、同級生の兄弟で中川さんに
保育してもらった人がいたかもしれないと思うと
なんだかうらやましい!
時を近くして
保育士の中川さんがいたことを想像すると
ワクワクしてしまいます。
中川李枝子の自宅は世田谷区
50年以上世田谷区に住んでいるそうです。
お勤めだったみどり保育園が駒沢公園の近くだったことから
広い世田谷区の中でも南部の方に
自宅があるのではないかと思われます。
駒沢公園を南下した深沢図書館に
中川李枝子さんのコーナーが作られていたことも
あるようです。
緑の比較的多い
大きな家も多い
ゆったりとしたところでした。
思い出しただけでも懐かしい!!
(といってもそこに住まいがあるかは定かではないですが…)
中川李枝子さんの作品裏話(1年生国語「くじらぐも」)
製作に一番時間がかかった話は
光村図書出版の1年生の教科書に掲載されている
「くじらぐも」
これは、書下ろしですが
400字詰め原稿用紙4枚を書くのに
1年ほどかかったそうです。
実際多くの子どもたちが
国語の学習として扱う文を書くのに
中川さんは、小学校へ行って
やっぱり子どもの実態を調査したのかもしれないですね。
1年生の子どもたちは、このお話を読むのが好きでした。
私も、楽しく授業をさせてもらいました。
ぐりとぐらの名前の由来
フランス語の絵本があり
それを紙芝居にして聞かせたところ
野ねずみが
「グリグルグラ」
という擬音の歌を歌うところがあり
そこの場面を読むのを
子どもたちがとても喜んだので
「ぐりとぐら」
という名前を付けたそうです。
すべてにおいて、
ぐりとぐらの絵本は
子どもたちへの実践や反応から
生まれた本なのですね!
それだけ、真剣に中川さんが子どもたちと
関わってきたことも感じ取ることができます。
そんな誠実な中川さんの姿勢に
私は学ぶところが多かったです。
中川李枝子の名言
ここでは、
インタビューや文献の中から3つ紹介しますが
ほかにもたくさん子育てや教師としての心構えを
確認させられる言葉がたくさんあります。
「子どもはみんな問題児」
などにもたくさんあって一読をお勧めします。
子どもの本質は、
いつの時代でも簡単には変わらないと思います。
問題は大人。(中略)
おとなが子どもの安全地帯であってほしいと思います。
おとなが安全地帯であるためには、
おとなも満たされていないといけないですよね。
私も、大きな愛で子どもを包めるように
日々に流されず
自分を整えていきたいと思います。
私は私。あなたはあなた
今の子どもたちと大人たちへのメッセージです。
人はそれぞれみんな違う。
比べることなく、
画一的になることなく
自分らしくいられたら素敵ですよね。
小さいころにはそれが自然にできているはずなのに
どんどん大人になるにつれ
枠に入れられ、それを子どもたちにも
強いてしまう。
私もこの言葉を毎日忘れないようにします。
私は人生の運、不運を左右するものは、どういう人に出会うか、
次にどういう本に出合うか、だと思うんですよ。
体現されている中川李枝子さんの言葉なので
説得力がありました。
ただ、出会うだけでなく
どのように行動していくか。
チャンスはあってもそれを得ていくのは
やはり自分次第なんだろうなと思います。
私も、本と人との出会いを大切に
出会えるようにまた行動していきたいと思いました。
まとめ
保育士としての考え方も
素晴らしい
子ども主体で考え、行動される方でした。
その思いや姿勢が
絵本に表れているから
子どもたちは、絵本の世界にスーッと入っていくことが
できるのでしょう。
これだけ、長く子どもたち(過去に子どもだったわたしたち含め)に
愛され親しまれる作品を届けることができるのでしょう。
子どもそのものを受け止められるおとなであり続けたいと
私に再確認させてくれるる方でした。
中川李枝子さんの作品 ぐりとぐらについてはこちらからどうぞ。
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