今年(2023年)で芸能活動70周年を迎える黒柳徹子さん。
大ベストセラーの窓ぎわのトットちゃんの作者であり
「トットちゃん」としても有名です。
肩書は、女優、タレント、エッセイスト、
司会、声優、ユニセフ親善大使、
日本パンダ保護協会名誉会長、
いわさきちひろ美術館館長など
たくさんの肩書があります。
そんな、多才な黒柳徹子さんの
すごすぎる経歴(歴史)や夫、両親、
兄弟などについて紹介していきます。
黒柳徹子Wikiプロフィール
本名 黒柳徹子
生年月日 1933年8月9日
出身地 東京府東京市赤坂区(東京都港区)乃木坂
最終学歴 東洋音楽学校(東京音楽大学)
黒柳徹子名前の由来
生まれてくるとき新世紀の人や、父母、父の友達たちみんなが
男の子に違いないと言っていて
それを信じた両親が「徹(とおる)」と名前を決めていた。
結果女の子が生まれてきて
気に入っていた徹の字に子を付けて
徹子としたそうです。
女の子が生まれてきて
周りの方はどんな気持ちだったのでしょうね。
ご両親が気に入っていた字を
そのまま付けてもらえてよかったですね。
黒柳徹子のあだ名
トットちゃん
周りの人が「テツコちゃん」と
呼んでいたのを
黒柳さんは、
「トットちゃん」
と呼ばれていると思っていて
おまけに「ちゃん」も自分の名前だと信じていたので
名前を聞かれるたびに黒柳徹子さんは、
「トットちゃん」
と答えていた。
周りのみんなも
トットちゃんと呼んでいた。
ノートには「てつこ」と書いたが
本当はトットちゃんだと小学生の頃は思っていた。
小さい子あるあるのエピソードですね。
ただ、ノートに「てつこ」と書いていても
トットちゃんだと思っていたというのは
さすが徹子さんらしいエピソードだなと思いました。
ある意味、
素直なのかもしれないですね。
トット助
お父さんがいつのころからか呼び始めた。
お父さんは70まで
黒柳さんのことを
トット助と呼びました。
そのおかげで
自分が小さいころトットちゃんと呼ばれていたことを
忘れずにいられたので
「窓ぎわのトットちゃん」
という本ができたとか。
お父さんの愛情の現れですね。
「助」を付けたくなるくらい
飛び回っていて男の子勝りだったのかな?
チャック
おしゃべりの黒柳は口にチャックだからつけられた、
という風に伝わっていたそうですが、
NHKの放送劇団の試験を受けた時に朗読したのが
芥川龍之介の河童で
その中にチャックと言う河童が出てくる。
その時の河童が黒柳が気に入っていたのと
朗読の練習のためにチャックチャックチャック!と口に出しながら
NHKの老化を歩いていたので同級生からチャックと呼ばれ始めて、
それが定着したようです。
黒柳徹子の経歴(歴史)
小学校1年生の時
落ち着きのなさ(多動衝動性)が理由で問題児とされ
退学を迫られてしまいました。
黒柳徹子さんを丸ごと受け止めてくれる
トモエ学園に転校します。
そこで出会った小林校長先生のもと
黒柳さんらしく成長していくのですが
戦争が激しくなり
青森に疎開します。
その後、東京に戻り
香蘭女学校、
東洋音楽学校声楽家に進み
オペラ歌手を目指しますが、
高い声しか出ないので声楽をあきらめました。
自分の子どもに絵本を上手に読んであげたいという理由で
どこがそれを教えてくれるのか…と考えていたところ
新聞にNHK放送劇団の俳優募集の広告が目に入り
そこでなら絵本の読み方も教えてくれるかもしれないと
応募しました。
応募や試験でも様々なエピソードを残しています。
履歴書を持参するのに郵送してしまい
送り返されたのが、締切り前日だったとか。
筆記試験会場を間違えて諦めたが
ちょうど1000円を持っていてタクシーで会場に向かったとか。
試験は分からないことばかりで、
長所をひたすら書き綴ったとか。
そんなことがありながらも約6000人の応募の中から
6次までの審査を経て劇団員の一人として選ばれました。
試験では、
お父さん(NHK交響楽団のコンマス)のことは
伏せて受験していたのですが
最後の面接でお父さんの名前を面接官から出され
ついに、白状し
多分お父さんは反対するだろうことを面接官に伝えました。
すると、わざわざNHKの方から家に局長が直談判に
合格させたいのだが…と言う話をもっていったとか。
こうして、テレビ放送の開始を翌月に控えた
1953年1月に無事にNHK放送劇団の一員となり
テレビ女優の第一号としてデビューをしました。
運も持ち合わせている人だったのでしょう。
何か、華もあったのか、
人を引き付ける個性もおもちだったのだと私は思います。
当時テレビは日本中で866台しかなく、
そのテレビを見る人のために番組を作っていました。
何人か集まって見ていただろうことを考えても、
4000人くらいの人を相手に生放送をしていました。
生放送ですから、失敗もできないし
ハプニングもあるでしょうし
臨機応変さ柔軟さが必要だろうなと思います。
そんな、臨機応変さや柔軟さは後の
ザ・ベストテンの司会者の時に
生きたのではないでしょうか。
1961年文学座研究所でお芝居の勉強をします。
1971年にニューヨークに留学。
1972年玉ねぎヘアーになる。
これは、着物と洋服どちらにも合う髪型として考案しました。
1976年徹子の部屋がスタート
これをきっかけに、
訳のイメージがし改行に影響するからと言う考えで、
テレビでの女優活動を控えるようになりました。
1980年から1983年までNHK紅白歌合戦の紅組司会(1958年にも)
2015年は、総合司会として司会を行った。
ザ・ベストテンの司会者として活躍。
1981年トットちゃん戦後最大のベストセラーとなる。
1984年にユニセフ親善大使になる。
1086年に世界ふしぎ発見が始まる。
当初は着物を着て出演していました。
30年40年続くと思わず…
2011年同一の司会者による番組(徹子の部屋)の
最多放送回数記録で黒柳徹子さんはギネス認定され
現在も更新中です。
黒柳徹子さんの芸能生活の歴史と
テレビ放送開始の歴史は同じなのですね。
それだけ長く活動をされていることが本当にすごい。
そして、多くの人に伝えることができるからと
障害のある方たちについてや
発展途上国の方たちについてなどの
啓蒙活動もされているのが素晴らしい方だなと思います。
黒柳徹子がユニセフ親善大使になったいきさつ
窓際のトットちゃんの英語訳は、
イギリス人であり、徹子さんの友達の
ドロシー・ブリントンさんが翻訳しました。
英語版が出たタイミングで、
緒方貞子先生に献上したところ
緒方先生がユニセフの一番偉い方である
府に背負事務局長だったジェームス・グラント氏に渡しました。
緒方先生は、親善大使アジアから誰かいないかと
打診されていて以前から黒柳さんのことを話していたそうです。
そこで、黒柳さんの人となりを知ってもらおうとしたのでしょうか
英訳本を渡しました。
窓ぎわのトットちゃんを
読んでこれだけ子どものことが分かっている人だったらいいだろうと
言うことで、
アジアから唯一の親善大使になりました。
その後の活躍は皆さんもご存じかと思いますが
現地に行き、
笑顔で子どもたちに囲まれて活動している様子が伝わってきます。
きっと、ご自身が戦争中
食べ物が少ない中で生活してきた経験や
楽しいことが少しずつ減ってきて
毎日、警報が鳴り、防空壕に避難するという
大変な生活を送ってきた経験があるので
子どもたちの身になって考えたり
行動したりすることができるのだと思います。
そんな、体験をしてきて
尚、芸能人という立場を生かして
発信を続ける黒柳さんの姿勢に
平和や豊かさを大切にしたいという気概を感じることができます。
また、トモエ学園で過ごした学童期の
みんな一緒
それぞれの子が大切にされたという
経験が自然と身に付いているから
いつも弱者に対して(弱者と言うのもおこがましいのですが)の
配慮を忘れない活動ができるのだろうなと
改めて教育の大切さや素晴らしさを感じさせてもらいました。
黒柳さん名言
絶対に、子どもたちに恥ずかしい、
見せられないような番組には出ない。
(中略)
どんな子どもにも見せられる番組だけやっていきたい。
こんな、信念をもって
番組に出演されていたのだなぁと改めて
知りました。
だから、黒柳さんの言葉に、
出演されている番組にウソはないのでしょう。
皮膚の色や、国籍で、
「何々のくせに」
と言うのは、やめてほしいと思います。
そういう高みから人を見下すような言い方は、
絶対にしないでください。
ザ・ベストテンで
中継先からの質問をした人に対して言われた言葉です。
人を傷つける言葉に敏感ですね。
きっと、幼少期からそういう育ち方をしてきたから。
トモエ学園でそんな教育を受けてきたからなのでは
ないかなと思います。
ユニセフ親善大使に本当にふさわしい方だなぁと思います。
何が私に実現できるかは分かりませんが
常に、人間として謙虚でいたいなと
気付かせてもらえました。
黒柳徹子の夫は?
残念ながら?ご結婚はされていません。
しかし、お見合いはされていました。
3回ほど。
どの方もお医者さん。
始めは歯医者さんで、
すごく長くしゃべる人だったそうです。
お見合いに行き、
徹子さん以上に話しをし、
初回の出会いで聞き疲れたほどのお相手だったとか。
徹子さん以上とは、
相当なものですね。
2回めの方も医者の卵でしたが
あまり、話が面白くなくて立ち消え。
3番目の脳外科医の方とは
相手のご両親のことも徹子さんが気に入り、
お父さんの方がタイプだったようですが
活力が感じられる青年でうまくいきそうと思ったようです。
しばらく、お相手の家に行ったり
相手の方とも出かけたりしていました。
義母さんにも気に入ってもらえて
一緒に買い物したり
プレゼントをもらったり
していました。
かなり、良いところまで話は進んでいたようですね!
仕事より結婚の方が大事と思っていた徹子さん。
一度は、結婚すると実のお母さんに伝え
話は進んでいたのですが…
ふと、マリッジブルー??
ちょっとこことがきっかけで考え込んでしまい
そのときもらった
ひとつだけでも
いやなところ
きになるところがあったら
やめた方がいいよ。
と言う言葉で
相手の歩き方が気になっている自分に気付き
断りました。
その話をした時に
実のお母さんは徹子さんの言い分を聞いてくれました。
結婚寸前までいっての
断り、どれほど大変だっただろうと思いますが
実のお母様が色々立ちまわったようでした。
文句の一つも言いたくなりそうですが
ご両親の子どもを受け入れる姿勢は
ここでも貫かれられていますね。
それ以来お見合いはしていないそうです。
お付き合いはそれなりにされて、
結婚しようと思った人もいました。
しかし、
長く続く仕事があったり
外国人男性で遠距離恋愛だったりで
結婚という形にまでにはならなかったようです。
好みは
年上、尊敬できる人
そして、少しワイルドな人だそうです。
結婚がすべてだとは思わないのですが
日常的にも、黒柳さんは
素敵な男性の方と
たくさん関わられていて
黒柳さんを慕い、支えている方々が
多いのは黒柳さんの人間性や
人を思いやる優しさなどの
現れなのではないかなと思っています。
黒柳徹子の家系図父親は黒柳守綱(くろやなぎもりつな)
NHK交響楽団のコンサートマスターを務めたヴァイオリニストです。
日本で一番じょうずなバイオリニストで、
賞状ももらっていたと黒柳徹子さんが回想していました。
その為、戦争で出征したのは後の方でした。
また、敗戦後、シベリアの捕虜になったのですが、
帰国するのは、捕虜の慰問をしていて帰ってくるのは遅かったそうです。
シベリアの捕虜になったなどと言う情報は
コンマスがいるということが新聞に出ていたので
離れていてもお父さんの情報が入ってきていました。
ただ、ガセネタもあったとか…
普通の家庭の家のお父さんなどは、
帰ってくるまでその安否は分からなかったでしょう。
安否を新聞で知ることができるほど
有名だったのは、そんなエピソードからも
感じることができますね。
戦争が激しくなる前でも、
お父さんは洋風が好きだったらしく、
朝ごはんはパン。
当時ご自宅の近くにあった
洗足パンというパン屋さんで
いつも
出来立てのフランスパンを運んでもらっていまし。
コーヒーやステーキなども食していました。
戦争が激しくなる前のことだと思いますが
それでも、一般的な家庭とは
違った文化をおもちだったことは
想像できますね。
どうしても、戦争前というと
日本風なお米とみそ汁と魚をイメージしてしまうのですが
わたしの偏見でしょうか。
黒柳徹子の家系図母親は黒柳朝さん。
作家デビュー作品チョッちゃんが行くわよで、
70歳過ぎてからベストセラー作家になりました。
それまでは、専業主婦でした。
守綱さん(お父さん)が朝さん(お母さん)が
外に出ることを好まなく。
一人で出かけることもなく家庭にいました。
黒柳徹子さんが、
小松菜と鳥のレバーを煮たものが絶品と
話をされています。
きっと、家庭的な普通のお母さんで
それまでは過ごされていたのだろうと思います。
ただ、
疎開も30歳そこそこで
3人の子どもを抱えて
行く当てもなく、
疎開をしたり、
自由奔放なトットちゃん(黒柳徹子さん)のために
徹子さんに会う学校を探したりと
かなり、柔軟で前向きなポジティブな
その時々を一番良い状況を選んで生きている
そんな方だったのではないかなと思います。
本は、守綱さんが死ぬ前に書き始めていたそうで、
守綱さんに
「そんなのだれがよむの」
と言われていました。
そんなことを言われていた本が
ベストセラーになったのですが…
守綱さんの死後だったようです。
自分の子ども時代の育ちを書いた本が
チョッちゃんが行くわよでした。
朝のテレビ小説にもなりました。
96歳まで生きたので
25年は働いたことになりますね。
全国から講演依頼が来たら断らずに全国へ行きました。
また、アメリカ、イギリスにまでも出向いて行きました。
晩年に仕事をし始め、
人生100年時代の本当に最先端を行っていた方ですね。
70歳からでも
まだ、新たに何かを始めることができることを
教えてくれている方だと思います。
朝さんの生き方を見ていると
まだまだ、たくさんの希望がもてますね。
お母さんの書籍も手にしてみようと思いました。
黒柳徹子さんは、
「お父様もお母様もおきれいなのにね。」
と
お客さんにいつも言われていたそうです。
今ならそんなことは絶対言わないと思い、
失礼なことを言うなぁと思ってしまいますが
そこで、お母さんである朝さんは、
「素直だけが取り柄です。」
と答えていたそうです。
徹子さんは、
綺麗よりも素直の方が上だと思っていた。
というエピソードもあります。
このお母さんあってこそ
家族があってこそ
黒柳徹子さんが徹子さんらしく
生きていられるのだろうなと
子どもに対する親の姿勢を学ぶことができました。
黒柳徹子の家系図兄弟・姉妹そして親戚
徹子さんが一番上のお姉さんで
その2歳下に弟の明児さん。
そして、紀明さん
妹の眞理さんがいますが、
さんは、敗血症で早くに亡くなっています。
紀明さんは、ヴァイオリニストです。
眞理さんは、元バレリーナです。
19歳の時に捻挫によりバレリーナを断念し、
美容師に転身しました。
元プロ野球選手の石井礼司と20歳の時に結婚しましたが
39歳の時に離婚しています。
現在は、北海道に住んでいます。
おじさんは
松竹蒲田撮影所の初代所長の田口桜村
日本ニュース社のニューヨーク支社長や
アメリカ・メトロニュースの極東代表を務めた
ジャーナリスト、報道カメラマン、映画製作者の
田口修治さん
経済日報社長の門山修二さんなどがいます。
どうやら
北原白秋もお母さんの方の
遠い親戚にいるようで
家系図を調べてみると
なんだかすごい人たちが周りにいるようです。
音楽の道に進むのも
芸能の道に進むのも不思議ではないですね。
徹子さんの現在
夜は、
YouTubeでオーケストラを聞いて寝るそうです。
ご両親やご自身が音楽大学出身なので
そういう血が流れていらっしゃるのですね。
わたしはとてもまねできないのですが、
以前は、朝の5時くらいに寝ていたそうです。
しかし、今はゴールデンタイムのことを知り、
夜中12時にはねているそうです。
5時くらい起きて白湯とチョコをちょっと食べ
ふたたび寝て、
11時くらいに起きるようです。
その後、徹子の部屋の収録に行くのでしょうか??
インスタグラムへの投稿も
福山雅治さんから徹子の部屋で勧められたら
すぐ始められ
その好奇心に感心します。
わたしは、まだ、インスタには手が出せていないので…
YouTubeチャンネルもされていて
楽しんだり、驚いたり
時にたくさん食べたりしている姿を見ることができます。
本当に活動はいまだにとどまることを知らず
お元気で活躍中です。
まとめ
いくつになっても
新しいことを抵抗なく
楽しみながら
取り組んでいるすがたや
楽しいだけでなく
強い信念をもって活動されている姿が
尊敬に値しますね。
10月には窓ぎわのトットちゃんの続編が発売され
冬には、窓ぎわのトットちゃんの映画も公開され
これからも、黒柳徹子さんから目が離せなさそうですね。
窓ぎわのトットちゃんについて
詳しく知りたい方はこちらからどうぞ。
黒柳徹子さん原案の最新絵本
トットちゃんの15つぶのだいずについてはこちらで紹介しています。
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